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武蔵野航海記

武蔵野航海記

源頼朝

唐・新羅からの侵略を迎え撃つための国家総動員体制であった律令体制も、実際に日本への上陸作戦が無いままに時間が経ちました。

それに連れて支配者達は当初の緊張が薄れて行き、財政収入の確保という当面の問題解決を優先するようになりました。

律令制度は、その背景に儒教という原理があります。

いかにフィクションだとはいえ、「万民の幸福」が儒教の目的です。

日本人はその思想を理解せず、単に「富国強兵のための国家組織」と受け取りました。

この辺は、明治になってヨーロッパの政治制度を導入した動機と全く同じです。

国司の本来の役割は施政官であり、民生の安定を行うことが仕事です。

奈良時代までは、本気になって律令政治を行おうとした者がいました。

しかし平安時代になるころには、国司は実質的な徴税請負人になりました。

一定額を国庫に納めればよく、残りを農業再生産への投資や民生安定化に振り向けず私財の形成に努めるようになったのです。

私財作りによく利用されたものが、官の倉庫にある稲を高率で貸し付ける公出挙(利率年約50%)でした。

この利息収入の一部が国司の取り分になった為、国司は嫌がる農民に無理やり稲を貸し付けるということになったのです。

この利息収入が国司の収入の中でもウエイトが大きいものでした。

律令制崩壊に伴う財政難で都の中央官僚に給与が払えなくなると、彼らに地方の国司を兼任さました。

そしてこの利息収入をもって給与に代えるという事態になったのです。

都の官僚自身は地方に赴任せず代理人(目代)を派遣する制度(遥任)が一般的になりました。

又、年官という制度もありました。これは国司を推薦する権利を特定の個人に与える仕組みです。

その推薦権を得たものは、公出挙の利息の受け取りを条件に息のかかった者を国司に推薦しました。

この制度は年々発達し、摂政・関白・参議などの閣僚クラスの公家の給与もこの方法で払われるようになっていきました。

このように有力者の推薦によって国司となったものには、官吏としての責任感など無く、利息収入もありませんでした。

しかし国司の官名を称する特権だけはありました。源氏物語に出てくる「揚名の介」がこれです。

地方の有力者はこの「揚名の介」のネームバリューに群がりました。

なんのことはない、政府自体が強制サラ金となったわけである。

日本の政府が民生の安定という責務を放棄したので、地方は無法地帯になりました。

そこで実際に地方政治を担ったのが後の武士達です。

国司はその権限を利用して、必要な農地を給付せずに無報酬で農民を開墾作業に使役しようとしました。

貧農がその負担に耐えられるわけが無く、最低生活を保障してくれる有力者のもとに逃げ開墾に従事するようになったのです。

国司と現地の有力者の関係は複雑で、赴任当初には国司は強権で有力者の農地私有を否定し税を徴収しようとします。

しかし任期の終わりには有力者と妥協しその農地の所有権を認めるようになります。

離任後に有力者からその違法ぶりを中央政府に訴えられることを恐れたからです。

またその土地に土着し自分が有力者となる場合は、有力者グループに仲間入りするわけですから、一定の仁義をきらなければならないのです。

地方の有力者は決して零細農民が成り上がったものではありません。

彼らは、古代の小国家の王の末裔か都から派遣された国司が土着した者の子孫のどちらかです。

国司は律令の規定を忠実に守る気はないし、地方の有力者はそもそも律令の知識などありません。

このような無法状態で必要な秩序を維持するものは、彼らの間の力のバランスです。

有力者の力の背景は、武力と官位・役人としての地位です。

彼らは、官位と自己の土地の所有権の保証を求めて中央の有力者に接近しました。

そのために自分達が開墾した土地を、中央有力者へ名目だけ寄進したのです。そして年貢という名の所領保全の為の保険料を支払いました。

こうして、地方の土地の名目的所有者が都の貴族で、開発者が下司(現地管理人)となる荘園制が発達しました。

伝統的に武力を持った地方の有力者が、自分達の力を利用して大土地所有者になり、荘園の下司になり、更に地方政府の役人になって行ったというのが武士です。

武士達は中央の有力者のうち誰が一番自分の利益を守ってくれるかを絶えず注目していました。

そのなかでも人気の高かったのが源氏でした。

源義家(八幡太郎義家)は頼朝の百年以上前の先祖ですが、武士からの土地の寄進が相次ぎ、他の貴族が嫉妬して義家への土地寄進を禁ずる命令が出たほどです。

源氏は中央の有力な貴族で頼りになる存在だと武士達に思われていたのですね。

この政治的遺産を相続したのが子孫の頼朝でした。

ここから見えてくる武士達の姿は、決して律令体制に対立するというものではありません。

自分達の素性に誇りを持ち、律令体制を実質的に支えているという姿です。

1180年8月、流人源頼朝は伊豆で兵を挙げ、二ヶ月間で関東を制圧し10月には鎌倉に入った後、富士川で平家軍を敗走させました。

この時期、同族でありライバルでもある従兄弟の義仲や甲斐源氏・常陸源氏が兵を挙げていました。

頼朝としては心穏やかでなく、そのまま大軍を擁して京都に攻め上り清盛の後釜になろうと考えました。

清盛は藤原氏の後釜です。その清盛の後釜になろうと考えたのですから、頼朝は自己を武士ではなく、中央の有力者と考えていたことは間違いありません。

関東制圧戦の最中に頼朝は、地方政府の役人に家来の武士を任命しました。

さらに武士達の荘園管理人の地位を保証し(本領安堵)、敵対者の所領を没収して家来に恩賞として与えました(新恩)。

また地方政府の倉庫にあった稲などの財産を軍資金に勝手に使っています。

天皇でもないのに官僚を任命し、荘園の所有者でもないのに荘園の管理人を入れ替えたのです。

こんなメチャクチャなことを平然と頼朝は行い、家来達もさして不思議とは思っていませんでした。

頼朝の行ったことは、当時の中央有力者の行動としては普通のことだったのです。

前にも書いたように、年官という制度で中央有力者が地方政府の役人を指名し、租税を私することが常態化していました。

又、名目上の土地所有者である中央有力者が土地を国衙役人等から十分に守れないときは、下司(実質所有者である現地管理人)は、別の有力者に土地を寄進しなおすという習慣があったのです。

天皇家も公家も武士も当時の日本人全ては、律令という法制度で日本が治められているという意識はなかったのです。

富士川の勝利後、京都に攻め上ろうとした頼朝を引き止めたのは、千葉介常胤・上総介広常・三浦介義澄らの有力武士でした。

彼らにすれば流人であった頼朝を清盛の後釜にするために、危険なバクチを打ったわけではありません。

自家の所領の所有権の確定、国衙における地位・官位の取得による自分達の力の増強を図っただけの話です。

そして富士川勝利の後彼らが頼朝にさせたのは、自分達が新しく得たものに合法性を付け加えることでした。

この関東武士の総意を受けて頼朝は後白河法皇と交渉し、日本政府の東国総代理人に任命されました。

頼朝が東国で確立した権限は、平家を滅ぼし奥州藤原氏を滅ぼすことによって、全日本的規模に拡大して行きました。

日本全体の治安維持と年貢徴収の責任者とされたのです。
いうなれば天皇の代行業です。

天武天皇が唐と新羅の日本侵攻を迎え撃つために中央集権体制である支那の律令制度を導入しましたが、今まで説明したように非常に無理を重ねました。

チャイナとはまるで異なる社会にチャイナの世界観を背景に持った制度を当てはめようとしたため、本来の機能を発揮せず、全然別の現象が起きてしまいました。

チャイナでは科挙で採用された官僚が律令制度を機能させ、貴族制を打ち破り皇帝専制政治体制を作り上げました。

しかし日本では従来の貴族を官僚にすることが出来ず、武士という階級を発生させ貴族は没落してしまいました。

文化的後進国に権力者がよそから思想を導入するということは、その文化的権威を独占するということを意味します。

日本には律令を発生させた思想的基盤がありませんから、被支配者にはそれを合理的に批判する能力がないのです。

そうなれば、それを拒否するか或いはよそ事として無視し、都合のいいところだけを利用するかしかありません。

律令体系を強制した支配者は、物理的な武力だけでなく仏教・神道といった宗教的権威も備え、更には神から日本の統治権を与えられたとして正統性を主張したわけです。

どの社会でも国家が発生する時期には、従来からの狭い村の中の道徳と国家という大組織の論理が衝突します。

その矛盾を時間をかけて統合していったのです。

チャイナの儒教は、宗族という狭い社会と国家という大きな組織をうまく纏めるための工夫でした。

異なる宗教と習慣を持つ多数の民族を一つの国家に纏めるために、ローマはチャイナとは違い完備した法体系を作り上げました。

その後、ヨーロッパ社会がキリスト教化し宗教が社会を支配した時期が続きました。

このカトリックの支配が社会に会わなくなってきたので起こったのが、ルネッサンスと宗教改革です。

日本は、国家の形成という大事な時期に自前の思想を作る余裕がなく、よそから借りてきました。

その結果大混乱が起こり、日本の社会と国家組織を整合させる思想の発達が阻害されてしまったのです。

律令制度を論理的に批判するには、律令の基礎となっている儒教の思想を理解していなければなりません。

しかし当時の日本人は、儒教を理解していなかったのでそれは無理でした。

そこで、律令体制に対しては非論理的・情緒的に不満を表明するしかなかったのです。

このやり方が日本人の性格となり、後の世に大きな影響を及ぼしていきました。

頼朝は国の財政・治安・軍事を掌握したわけですから、従来からの政府にとっては自殺行為であす。

通常の感覚を持った支配者であれば、絶対に認めない権限委譲です。

そしてその権限を巡って深刻な争いが生じ、最終的には新王朝の樹立となるのが普通です。

それが日本に限っては天皇と幕府の二重構造になりました。

理由の一つは、頼朝にはまだそれだけの力が無かったからです。

頼朝が完全に掌握したのは東国だけで、西国は平家の所領500箇所を没収し御家人を任命しただけで非御家人の武士が沢山いたのです。

又、寺社の力が強く強力な僧兵を抱えていました。

更に、頼朝自身に新王朝設立の気持ちが無かったことも理由の一つです。

彼は自己を中央の有力者であると考えて行動し、武士と都の朝廷・公家・社寺との調整役でしたが、どちらかというと武士の利益を犠牲にし、都側をかばっていました。

そして自分の娘を天皇の后にしようとまでしました。

そんなことで御家人との間が円滑を欠くようになっていったのです。

古来頼朝の死に関して疑問が多いのですが、御家人が殺した可能性も大きいのです。

頼朝に続く二代頼家、三代実朝は北条氏を中心にした御家人に殺されました。やはり源氏には武士の利益代表という意識は無かったのでしょう。

三代将軍実朝が殺され源氏の嫡流が断絶して2年後の1221年、後鳥羽上皇などが権力奪還を図って起こしたのが承久の乱です。

これは鎌倉幕府に簡単に鎮圧され、首謀者三上皇は配流されてしいました。

承久の乱後、上皇に味方した武士の所領3000箇所を没収・御家人に配分することによって鎌倉幕府は全日本を支配下に置くことが出来ました。

しかも源氏将軍が途絶え北条氏が執権として鎌倉幕府の実権を握っていたので、鎌倉幕府は御家人達の意向を代表する政権になっていました。

しかしこの段階でも幕府は朝廷を滅ぼそうという気持ちがありませんでした。

もともと武士達は、律令制が機能せず無法状態となっていた地方で、経済政策や治安維持といった実質的な統治を行っていました。

地方政府で一定の地位を得て自己に有利な状態をつくろうとはしても、現体制を覆すという意識は薄かったのです。

鎌倉幕府の本来の目的は、御家人の土地所有を朝廷側に認めさせ、所有権を巡る御家人同士の争いを裁判で決着させることです。

それ以外の、領主としての公家と地頭としての武士の荘園の権利を巡る争いの解決には消極的でした。

それに勢いを得た御家人の年貢の未進などにより、公家は経済的に困窮して行きました。

武力を持つ寺社にある程度譲歩すれば、御家人にとって旧体制はそれほど邪魔ではなかったのです。

京都の朝廷は、反対勢力が無視できるほどに無力な存在になりはてていたのです。

それが鎌倉時代以後も天皇家が存続した理由です。


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